宇多田ヒカルが、なんだかまぶしい
久しぶりの更新。
宇多田ヒカルが活動を再開した。熱烈なファンということはないけれど、年がひとつしか違わないせいか、デビューした時からずっとその歩みを見てきた。
彼女が「人間活動」に専念するといって、公式の場からほとんど姿を消して、その間に新たな伴侶を得、子どもを出産し、さらに豊かな感性を育んで、再び表現の場に戻ってきたことは、なんというか、他人事ながらとても感慨深い。
同窓会に行って、かつて同じ学生生活を送っていた友人たちの今を知ったときのような。こんなにも違う人生を送ってきたということに、愕然としたり、時の流れを感じたりして、今の自分の立ち位置を確認するような。
そんな存在として、彼女を見てきたのだなぁと思う。
今回新たに発売されたアルバムを聴いて、彼女が出演したNHKのトーク番組を見て、彼女の「人間活動」の充実を、圧倒的な力で見せつけられたという感じがしている。
それに対して自分はどうか、と考える。比べるのもおこがましいし、そもそも立ち位置が全然違う。でも、流れた時間は同じ。
彼女が活動休止を発表した頃、私は公務員生活に完全に行きづまっていた。人生に絶望していたと言ってもいい。そこから、キャリアチェンジのために動きだして、公務員を退職し、私生活では結婚もした。この先、自分はいつ社会に復帰できるのか、いつ闘いの場に戻れるのか、そのとき無職の今を肯定できるような新しい価値を提供できるのか。
そんな不安に駆られるほど、ますます彼女がまぶしくなる。
キャリアチェンジのための休息について、ちきりんさんが著書の中で「間欠泉的キャリア」と呼んでいたのを思い出す。一定期間働くごとに、リフレッシュや個人の趣味のため、育児や介護など家族のため、数か月の休みを挟むような自由な働き方。これは、本当に必要だと思う。
でも一定期間休んだ後、間欠泉の先に、望んだ働き方や生き方がなければ意味がない。
いま焦りに近い感情で、宇多田ヒカルの活躍を見守っている。