LIFE SHIFT

三十歳の原点~LIFE SHIFT~

社会人大学院生の日記。新たな働き方を模索中。

賢者でもなく愚者でもなく

ちょうど1年前の今ごろ読んでいたマツコの対談集。

続編を見つけたので読んでみたら、刺さる刺さる。

愚の骨頂 続・うさぎとマツコの往復書簡

私は知性が欲しい。この暗い迷妄の道を照らす確かな灯りが欲しいのよ。だけど、それらしきものを手に入れた途端、自分が賢者になったつもりで別の迷妄の闇に堕ちていくことが目に見えている。私はそれが怖いの。私が過去の自分を脱ぎ捨てて、何か偉くて崇高なものになろうとする、その醜い野心が怖いのよ。(中略)私は誰より競争心の強い浅ましい人間だから、この「賢者の罠」に堕ちやすい。だからこそ、「愚者の自意識」を手放してはならないのよ。

最近、自分で自分に、何様のつもりだ、と唖然とすることがある。家族や知人に対して厳しい視線を投げかけたり、自分を大きくみせようとする。誰も傷つけていないような顔をして、ものごとの実相が見えているようなフリをして、なにもわかっていないことを自分は知っている。誰かの言葉に傷つけられようものなら、相手を見下して自分の世界から排除し、相手にしていないふりをする。プライドの高い賢者になるでもなく、卑屈な愚者になるでもなく、フラットな立場でしなやかに知性を身につけていくことって、こんなに難しいことだっただろうか。

 

・今までいろんな人間に良かれと思ってお節介した結果、その人たちを逆に潰してきた。(中略)それってぇのも、私が「誰かの役に立ちたい」と願っているからだと自分では思ってたけど、よくよく考えれば単に自分の力を誇示したいだけの自己満足だった。

・それは非常に自己中心的かつ支配的な「繋がり」だから、本物の「絆」にはなりえないのね。

・孤独への耐性と他者へのリスペクトあってこその「絆」なんだわ。

知人に、とても魅力的で親切な人がいる。美しくて、自信に満ち溢れていて、エネルギッシュで、人を巻き込んで物事を進めていくのが得意な人。でもときに、それが傲慢に映る。「あなたのために」と言いながら、いつも「自分(エゴ)」が顔を出す。かゆいところに手が届くというレベルを超えて、ここがかゆいはずよ、私にはわかるのよ、と勝手に掻いてしまう。気づいていなかったでしょう、それを見つけたのは私よ、と臆面もなく言ってしまう。そうなると、人は一定の距離を置いて彼(彼女)と付き合うようになる。

 

アタシはまだ、自分の本当の急所を知らないで生きている。もちろん、そんなこと万人が知らなくても構わないことだし、知っているからって、その人が偉大な人ってことでもない。が、どこかでアタシはそれを知っている人は偉大だという想念があって、自分の本当の急所を、これまでの経験の記憶の中にいる自分を総動員して、知ったつもりになっているのではないかと自己憐憫しながら発言しているわ。(中略)自分を盛って自虐しているんじゃないかと怯えにも近い感情で生きているのよ。

他人の言動を理不尽に感じたとき、それに抗議しようとする自分を抑えこむことが多い。ここで闘わなくてもいいんだ、ちっぽけなプライドを守るためにこんなやつと同じ土俵で闘って、同じレベルに落ちる必要なんてない、私には闘うべき場所が他にあるんだから。そう思って溜飲を下げることがある。でも、本当に闘うべき時がいつなのか、分かっているとは言えないことにも何となく気づいている。自分の急所って何だろう。読み終わったあとも、この問いがいつまでも心に残る。