LIFE SHIFT

三十歳の原点~LIFE SHIFT~

社会人大学院生の日記。新たな働き方を模索中。

日々を紡ぐ

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子どもが生まれた。もう3か月になる。

まだまだ油断できないけれど、そっと息を吐けるくらいには落ち着いてきた。

順調だった出産から3日後、退院前日に我が子の呼吸が止まって、そのまま大学病院のNICUに搬送された。そこから始まった怒涛の日々。翌日は私だけ産科病院を退院し、以後は毎朝9時、12時、15時、18時の授乳時間に合わせて車で20分の大学病院に通った。ずっと一緒にいたかったけれど、産後ボロボロの体にパイプ椅子しかないNICUでの数時間はこたえたし、順調に減っていた悪露が搬送後に増えてトイレに行くたび大量出血していた。1日が終わると意識が遠のくような疲れで、骨も筋肉も何もかも痛かった。それでも子どもの側にいないと不安で涙がとまらず、会いたい気持ちだけで毎日病院通いをした。

その後NICUでいろいろ検査をして、異常がないのでもう少し経過観察したら退院ですと言われ、心から安堵した矢先。お話がありますと笑みのない顔で主治医がやってきて、今度は先天性の疾患が見つかったと告げられた。それはほぼ一生、病院と付き合っていかなければならないものだった。必死に保っていた糸がここでプツンと切れてしまい、その日は一晩中泣いた。翌日持っていく母乳を、泣きながら搾乳した。

病院では、まだ居たい帰りたくない離れたくないという私を、産後休暇中の夫がひっぺがすように家に連れ帰り、ごはんを食べさせベッドに寝かせ、授乳時間になるとそっと起こして車に乗せて病院まで運んでくれた。夫は、「いま子どものことで必死なちゃいちゃんの体を守る人がいないから、それはおれがやるよ。ちゃいちゃんは安心して子どものことを考えていいからね」と言って、実際そのとおりに行動した。普通に産まれて退院して家に帰ることが、こんなに大変なことだなんて知らなかったね、と二人で話した。

この間、私は人生で初めて文字を読むことができなくなってしまった。曲がりなりにも研究者の端くれで、本の虫だった私が、活字から情報を得ることができなくなった。正確に言えば、診断書など我が子に関係するものは読めるけれど、それ以外の本や資料、看板の文字は、頭に残そう・記憶しようなどと思っても目から後頭部にそのまま抜けていく感じで、子ども以外の情報がすべてシャットアウトされてしまう状況だった。テレビも同じで、映像も音楽も体を抜けて、まるで景色のようだった。帰宅後に夫がテレビをつけて見ている姿を見て、あ、夫はテレビ見られるんだな、父と母では違うんだな、とぼんやり思ったりした。

その後、経過も順調で、疾患のための服薬指導も受け、出産から数週間後にやっと家に連れ帰ってきた。入院中は険しかった我が子の顔が自宅では穏やかになり、ずっと抱っこしていないと泣き止まない甘えん坊になった。それは入院中の寂しさの表れに思えて、すやすや眠っている顔と同じくらい泣き顔も愛しく大好きになった。

病気のことを受け入れ、慣れない育児や夜泣きにあたふたしながら、子どもが笑っていればそれでいいと思ってやってきたこの数か月。それは産前に想像していたよりずっとハードで、想定外のことばかりで、でもその苦しみを差し引いてもあまりあるほどの幸せな日々。これからもいいことばかりではないかもしれないけど、毎日は続いていく。

 

数日前、以前にここで書いた末期ガンの夫が亡くなったことを知った。穏やかで幸せな毎日は永遠に続くわけじゃない。産まれる命と死にゆく命の、表裏一体の尊さに胸が締め付けられる。

広い情報の海の彼方から、心よりご冥福をお祈りします。


Photo by Janko Ferli on Unsplash