違いは豊かさであるということ。
昨日に引き続き、食あたり中に読んだ本のレビューです。
当時13歳だった自閉症の少年が書いた1冊の本が、世界20カ国以上で翻訳されベストセラーになりました。
自閉症者はなぜ床に頭を打ちつけるのか?なぜ突然奇声を発するのか?なぜじっとしていられないのか?これらの疑問に、自閉症者みずからが答え、心の内を語った衝撃的な作品です。
東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』。
彼を初めて知ったのは、テレビ番組の特集でした。画面で見る限り、いわゆる重度の自閉症患者に見えました。しかし、彼がパソコンを通じて紡いだ言葉は、私の想像をはるかに超えていました。
・自分が何のために生まれたのか、話せない僕はずっと考えていました。
・言葉を話せるようになりさえすれば、自分の気持ちを相手に伝えられると思い込んでいませんか?その思い込みのために、僕らはますます自分を閉じ込めてしまっているのです。声は出せても、言葉になっていたとしても、それがいつも自分の言いたかったこととは限らないのです。
・自分の体を自分のものだと自覚したことがありません。いつもこの体を持て余し、気持ちの折り合いの中でもがき苦しんでいるのです。
・年齢相応の態度で接してほしいのです。赤ちゃん扱いされるたび、みじめな気持ちになり、僕たちには永遠に未来は訪れないような気がします。本当の優しさというのは、相手の自尊心を傷つけないことだと思うのです。
自閉症患者に、考える力や心がないと思っていたわけではありません。しかし、我々以上に繊細で豊かな表現力・洞察力をもっていることに驚嘆したのも事実です。それこそが、私自身の想像力の欠如であり、愚かさであることに改めて気づかされます。
「自分の体を自分のものと自覚できない」ほどの不一致感とは、一体どれほどの苦悩なのでしょう。彼らに見えている世界は、私たちとは違うのかもしれない。その違いは、本来われわれ人間が持つ「豊かさ」であるはずなのに、社会の仕組みの中ではそれが「生きづらさ」に変わってしまう。
・自分が話したくて喋っているわけではなくて、反射のように出てしまうのです。(中略)声は僕らの呼吸のように、僕らの口から出ていくものだという感じです。
・いつも慣れている会話なら、割とスムーズに言葉のやり取りができます。でも、パターンとして覚えているだけなので、自分の気持ちを話すこととは違います。気持ちと反対のことを、パターンに当てはめて言ってしまうこともあるのです。
彼は会話することについて、「知らない外国語を使って会話しなくてはいけないような毎日」と例えています。とてもわかりやすいですね。このもどかしい感覚は、言葉だけでなく、体の動きも同様で、「まるで不良品のロボットを運転しているようなもの」だと言います。
それでも、「ふつうの人になりたいですか?」という問いに対し、彼は言います。「自分を好きになれるなら普通でも自閉症でもどっちでもいいし、障害の有る無しにかかわらず人は努力しなければならない」と。
彼の言葉の中で、もっとも心を揺さぶられたのは次の言葉でした。
・僕の家族のすごいところは、僕のためにだれも犠牲になっていないことを、僕に教えてくれたことです。
この言葉の背景には、本人と家族の想像を絶する努力があったことがうかがわれます。彼にこれを言わしめた家族の絆は本当に素晴らしい。と同時に、これからも人生を歩んでいく彼にとって、助けを求められる、依存できる先が家族だけであってはいけないと思う。「自立した個人」を前提とする社会の仕組みを問い直し、依存先を多く準備することが結果として彼らの自立につながっていくと思います。そして「彼らの自立」は、いつか障害者となる我々全員の自立につながってると思うのです。