手術から数週間が経った。体はすっかり元どおり、とまではいかないけれど、あんなに苦しんだ悪阻は手術当日にパタッとなくなって、術後の痛みも数日で消えた。表面上はまるで何事もなかったかのように、以前の生活に戻っている。
変わったことと言えば、私の体が回復していくのと反比例して、普段は風邪もひかない夫が珍しく10日近くも寝込んだ。おかげで私は余計なことを考える時間もなく、夫の高熱を下げることに意識を集中させることができた。夫は夫なりに、私が想像する以上の苦しみを抱えていたんだと今更ながら気づかされた。そのあとは、締切間近の仕事や論文執筆を粛々とこなしながら、なるべく暇を作らないように過ごしてきた。
日常生活で少し困ったのは、涙腺がコントロール不能になったこと。車に乗っているとき、洗濯物を干しているとき、眠りにつこうと目を閉じたとき、何か思い詰めて考えているわけでもないのに、突然ダーっと涙が流れるのを制御できない。泣き尽くしてしまえば解決するんじゃないかと思ったりしたけど、感情を出しきったままにしたら自分はどうなってしまうのか想像がつかなくて怖かったから、とにかく考えないように努めている。
この結果が誰のせいでもないことは、わかっている。統計的に誰にでも起こりうることで、それがたまたま自分に起こったというだけのこと。別に珍しいことでもなんでもないし、そこに意味なんてない。そう思っても、以前の自分に戻れない。すべてが満ち足りて完全だと思えた暮らしに、不足を感じる。そのことに、追い詰められる。
自分でコントロールできないことに遭遇したとき、そのことに何らかの意味を見出したくなるけれど、理由のないことを淡々と受け入れて生きていくしかないときがある。そんなときは、悲しみはそのままに、涙は流れるままにして、できるだけ明るくいた方がいい。泣いても笑っても同じように時間が流れるなら、笑っていたほうがいい。
世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、嫌なことがめぐってくる率は決して変わらない。自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくした方がいい。
(吉本ばなな『キッチン』)
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況の真っただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。
(岸政彦『断片的なものの社会学』)