LIFE SHIFT

三十歳の原点~LIFE SHIFT~

社会人大学院生の日記。新たな働き方を模索中。

意味なんてない

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手術から数週間が経った。体はすっかり元どおり、とまではいかないけれど、あんなに苦しんだ悪阻は手術当日にパタッとなくなって、術後の痛みも数日で消えた。表面上はまるで何事もなかったかのように、以前の生活に戻っている。

変わったことと言えば、私の体が回復していくのと反比例して、普段は風邪もひかない夫が珍しく10日近くも寝込んだ。おかげで私は余計なことを考える時間もなく、夫の高熱を下げることに意識を集中させることができた。夫は夫なりに、私が想像する以上の苦しみを抱えていたんだと今更ながら気づかされた。そのあとは、締切間近の仕事や論文執筆を粛々とこなしながら、なるべく暇を作らないように過ごしてきた。

日常生活で少し困ったのは、涙腺がコントロール不能になったこと。車に乗っているとき、洗濯物を干しているとき、眠りにつこうと目を閉じたとき、何か思い詰めて考えているわけでもないのに、突然ダーっと涙が流れるのを制御できない。泣き尽くしてしまえば解決するんじゃないかと思ったりしたけど、感情を出しきったままにしたら自分はどうなってしまうのか想像がつかなくて怖かったから、とにかく考えないように努めている。

この結果が誰のせいでもないことは、わかっている。統計的に誰にでも起こりうることで、それがたまたま自分に起こったというだけのこと。別に珍しいことでもなんでもないし、そこに意味なんてない。そう思っても、以前の自分に戻れない。すべてが満ち足りて完全だと思えた暮らしに、不足を感じる。そのことに、追い詰められる。

自分でコントロールできないことに遭遇したとき、そのことに何らかの意味を見出したくなるけれど、理由のないことを淡々と受け入れて生きていくしかないときがある。そんなときは、悲しみはそのままに、涙は流れるままにして、できるだけ明るくいた方がいい。泣いても笑っても同じように時間が流れるなら、笑っていたほうがいい。

世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、嫌なことがめぐってくる率は決して変わらない。自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくした方がいい。

吉本ばなな『キッチン』)

少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況の真っただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。

(岸政彦『断片的なものの社会学』)

キッチン (角川文庫) 断片的なものの社会学

 

宿った命のこと

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人前で泣いたのは、何年ぶりだろう。ここでは泣かない、泣くとしても家に帰ってからだ、と思っていたのに、診察室を出て待合室に座った途端、気が緩んで目の前が見えなくなった。とにかく早く病院を立ち去りたかったけれど、たくさんの乳幼児や妊婦さんに囲まれて、長い会計待ちをしなければならなかった。

みんなどうして子どもを授かることができるんだろう。2人も3人も次々と産める人って何なんだろう。湧いてくる暗い感情を押し留めるために、心を無にしてずっと窓の外を見ていた。ひどい顔をしていたと思う。マスクをしてきて良かったとぼんやり思った。

 

いつの間に自分は、こんなに子どもを欲するようになったのか。いつからこんな風に、コントロールできないものに期待して、自分を見失うような人間になったのか。実際のところ胎嚢が確認できただけで、心拍もまだ聞こえてなかったし、最後までその姿を確認することができなかったから、喪失感なんて言ったら大袈裟なような気がした。それよりも、自分はもっと利己的な理由で悲しんでいるように思えた。

仕事を休んでいる今のうちに出産して、早く再就職を決めたい。せっかくなら、出産・育児の経験を今後のキャリアに生かしたい。夫の親戚家族と過ごすとき、義兄弟の子供たちに囲まれて肩身の狭い思いをしたくない。子どもを授かることができれば、いろんなことが上手くいくのに。迷いなく自分の人生を前進させることができるのに。そんな自分本位な未来が手に入りそうになって浮かれていた。それがすべて振り出しに戻ってしまったから、落胆しているだけじゃないのか。おもちゃが手に入らなくて泣き叫ぶ子どもと、大差ないんじゃないか。そんな傲慢な考えだから、こういう結果を引き寄せたんじゃないのか。宿った命は、自分の人生を豊かにするためのパーツではなかったのに。この奇跡は、本当に尊いものだったのに。

妊娠がわかってからこのひと月、体調が悪いせいもあるけれど、今は大事な時期だからと自分に言い訳して、研究も仕事もそっちのけだった。その命を失って、残されたのは何も手につかなかった空白の1ヶ月だった。やらなければならないことが山積みのまま、放置されていた。自分の人生を生きるために必要なあれこれをすべて放り出して、赤ちゃんのことしか考えられなくなるくらい完全に我を失ってしまった。そんな自分が信じられない。

まぎれもなく、妊娠が分かったあの日から私は母になった。愚かでも、まだ見ぬ姿を思い浮かべて、お腹をさすっているだけで心が満ち足りた。これから先の暮らしを想像するだけで胸がいっぱいになった。心拍が聞こえるんじゃないかと、毎晩私のお腹に耳を押し当てる夫が愛しかった。本当に毎日、幸せだった。

 

手術の日も、きっと涙を止めることができないと思う。退院しても、悲しみはきっと消えてくれないだろう。でも手術を終えて家に帰ったら、泣きながらでいいから、自分のやるべきことを淡々と前に進めていこう。人知の及ばない未来に希望を託すのはやめて、もういちど自分の力の及ぶ範囲で最大限努力しよう。子どものためじゃなく、家族のためじゃなく、自分自身のために着実に歩んでいくことが、愛する人たちのためになると信じて。そう考える以外に、今はまだ自分を保つ方法が見つからない。

 

※冒頭画像:https://unsplash.com/photos/34w3deK2DvY

公務員退職を決断させてくれたもの

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iPhoneのメモ帳を整理していたら、退職前のメモが出てきた。

日付を見ると、退職の1年半ほど前のものだった。今は退職が最善の選択だったとしか思えないのだけれど、当時はそれを決意するまでに長い時間がかかった。そのころは毎日始発の電車で出勤して、終電で帰ってくる日々だった。土日も休むことができない状態で1ケ月2か月と経つうち、帰りの空いた車内で涙がぽろぽろ流れるようになった。疲れ切った頭で、ウダウダ悩み続ける自分の気持ちに決着をつけたくて、書き溜めたメモだった。

今読み返すと、感情的で稚拙で恥ずかしさもあるけれど、それ以上に、このままではいけないと必死だった当時の思いがよみがえってくる。本当に、忍耐の一言に尽きる日々だった。

そのころ、同僚や友人に言えない不満や不安は、phaさんちきりんさんのブログを読むことで落ち着かせていた。このブログがそれと同じような役割を果たすなんて夢にも思っていないけれど、一方で私には元・公務員として分かることがあって、同じような絶望感の中で何とか気持ちをつないで出勤してる人がいることを知っている。どこかで、わずかでも誰かの気休めになるなら、その一部を記録しておこうと思う。

つれづれなるメモ

  • 5年後も今と同じ悩みや不安を抱えて過ごしたくない。変わり映えしないまま、歳だけとって後悔したくない。辞めたらチャンスとリスクが両方あるけど、辞めなければ後悔しか残らない。
  • 辞めたら最後、もう、いま以上の仕事には一生つけないかもしれない
  • 大きな不満もないかわりに、大きなやり甲斐もない。自分を誇れない。せめて家族がそばにいたら、このまま目をつむって生きるのもアリかもしれないけど、1人で生きていくなら、ここに留まることは空しいだけ
  • 周りを納得させる生き方をして、自分が納得できない生き方をしてきたこの5年、果たして幸せだったか?周りが納得しなくても、自分が満足できればそれでいいのでは?自分の人生だ
  • とりあえず、仕事やめても生きていける
  • 辞めたい。希望を感じない。人生を捨てている感じ。でも、辞めたくない。自立していたい。
  • もう、こんなこと続けられない。死んだように生きる、とはこのこと。
  • 公務員として忙しく1日がおわることは、それなりの充実感を与えてくれる。でもそれが将来につながっていかなければ、積み重ねにならない。この5年間、毎日毎日忙しく働いて、ただ土日を心待ちにして働いて、その結果自分に残ったものは何か?
  • いくら努力しても、積み重ねのない努力は残らない。この仕事で、自分の資産となるものをどれくらい積み重ねてこれたのか?
  • どの道で、何をするにしても、勉強していくことが必要。どこにいても、自分で生計を立てていける力を身につけないと。
  • 公務員を辞めて、孤独に耐えられるか?
  • 雇われの身になりたくない。といって、自分が経営者の器だとも思えない。働き方を抜本的に変えるしかない。子供も持ちたいし、家庭以外にも大切なものを持ちたいし、自立できる資産を持ちたいし、将来的には仕事を通じて社会貢献もしたい。サラリーマンとして、人生の大半を不満と不安で過ごしたくないし、仕事で体や家庭を犠牲にしたくない。
  • 月曜日、また1週間をさっさとやり過ごして、週末を早く迎えたいと願う。そして土曜は、平日の疲れで体調がすぐれず、日曜は翌週のためにエネルギーを温存して思い切り遊ぶこともない。そうやって、毎日が過ぎて、あっという間に5年経った。
  • やる気もエネルギーも希望も、自分らしく生きる要素はどこかに無くしてしまった。このままぬるま湯に浸かったように生きて死んだら、絶対に後悔する。自分の人生を精いっぱい楽しんで生きられたら。
  • 通勤の定期を買うたびに、定期を買うのはこれで最後にしたいといつも思ってきた。定期の有効期限まで何とか頑張ったら、あとは退職するんだと思うことだけが、心の支えだった。入省時に感じた違和感、自分の居場所はここじゃないという直感を、5年経った今日まで、毎日感じてきた。ここが自分の生きる場所だとか、天職だと思えた日は一日もなかった。辞める決断は正しいかどうかわからないけど、少なくとも間違っていないことだけは確信できる。
  • 人生は短い。自分の人生なんだから、やりたいことをやらなきゃ後悔する。公務員として生きていく未来は容易に想像がつくけど、そういう人生を歩みたいか?こんな風になりたいと憧れる人はいたか?否、あんなふうになりたくないとか、なんであんなにすごい人がこの程度で収まって満足しているんだろうと思ってきた。ここにいたら、それは自分の未来の姿になる。
  • なんとかなる。そう思えたらきっと大丈夫。流れに身をまかせつつ、分岐点で命がけで曲がる。死ぬことはみな平等で、こんなに普通のことはない。
  • ラクをしたいとは思わない。確実な保証はどこにもないけれど、リスクを自分で負えるかどうか。
  • 結局、自分の人生の責任は自分でとるしかない。誰かに委ねたら、そのあと自分に起きることをすべて責任転嫁して生きていくしかない。自分以外のコントロールできないものに口を出して、不平不満を言う人生は嫌だ。
  • 毎日最低8時間、同じ席で同じ人に囲まれていることが苦痛。仕事は集中して何時間でも取り組めるし、興味のあることなら休日返上でも構わないが、同僚の雑談に時間を取られて上司のジョークに気を遣って、神経が擦り減る。雑談も仕事のうち、必要なコミュニケーションだという暗黙のプレッシャーがあり、それをしないと浮く職場。だから合わせているけれど、心底くだらないと思っている。これがあと何十年も続くかと思うと、目の前が真っ暗になる。でも、この場所から動くことが出来なくて辛い。
  • やりたいことは自分の中にある。

 

流れていく感情を記録することで、退職の覚悟ができた

こんな風に一進一退で悩んでいたけれど、最終的にこの翌年に退職した。

その決断には、このメモも役立った。日々流れていく感情を、きちんと記録・蓄積していくことは、のちの決断において有用な財産になる。時間が経つと薄れてしまいがちな日々の苦しみの深さや満足度の低さを、その時の感情のまま思い出させてくれる。少しは楽しいこともあるしとか、まだもう少し耐えられそうだしとか、不安で退職の決意が揺らぎそうになったときも、こもメモが背中を押してくれた。これから先の5年間も、同じ思いを繰り返して過ごしていくのか、と問いかけることができた。このメモを付け続けるうち、自分のなかに覚悟のようなものが固まっていくのを感じた。

いまはまだ理想にはほど遠いけれど、一つ言えることは、もう憂うつな気持ちで朝を迎える日はないということ。退職を後悔することはないし、もっと早く決断すればよかったと思うほど。何よりも、今は未来の可能性に向けて、わくわくすること、楽しいと思えることにエネルギーを費やすのに忙しい。希望がある今の暮らしが、公務員時代に望んでいた生き方だと自信をもって言える。

 

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退職して10か月、公務員時代の収入に追いついた。

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退職して、まもなく10か月が過ぎようとしています。

この間、博士号取得のための研究を第一優先にしてきました。その傍ら、空き時間を使って(週にせいぜい2日くらいですが)細々と仕事をしてきました。

そして今月になって、はじめて公務員時代の手取り収入に追いつきました。

退職後の2つの収入源

収入源1:大学の研究員(非常勤)

院生をしながら、リサーチ関連の研究員(非常勤)をしていました。実働は月に4、5日程度で4~6万円ほど。ある程度定期的な収入が見込めるし、自分の勉強にもなるので、よいバイトになっています。

収入源2:クラウドの仕事

さて、こちらが本題。

公務員退職と同時に登録した、クラウドワーキングサイトからの収入です。

始めた動機は、収入源を得たいという理由のほかに、①元公務員とか博士課程の院生or研究員という肩書無しに、いち個人として自分のスキル・仕事はいくらで売れるのか、また②一般企業で必要とされている調査研究とはどのようなものなのか、知りたいという思いからでした。

収入を得るだけなら、どこかの会社に普通に就職すればよかったのですが、組織に所属せず、働く時間や場所を拘束されずに自分のペースで仕事をしたとき、どの程度やれるのか試してみたかったのです。

最初のうちは、あまりの単価の安さに愕然とし、サイトにアップされる仕事をただ眺めているだけでした。そのうち、少しずつオファーに手を挙げるようにしてみましたが、研究系はそもそも依頼が少ないし、実績のない人はクライアントとしてなかなか選定されない。大学も忙しいし…と自分に言い訳しながら、しばらくはサイトを検索するだけの日々でした。

秋口くらいから、大学のスケジュールに少し余裕ができたこともあり、たくさん手を挙げて、単価の安い仕事を1件、2件と受注するようになりました。

しかし、月の受注件数が1件しかない月や、まったくマッチングできない月もあり、クラウドによる収入が安定しないまま年を越しました。

クラウドワーキングで、月の収入が20万円超に

そして2017年、今月の売上が大きく増えました。たまたま運よく、単価の高い仕事を続けて受注できたことが理由ですが、実働は20時間ほどだったので、時給換算すると1万円/時ほどになり、我ながら驚きの売上でした。

といっても、今回はたまたま運が良かっただけで、こんなことは滅多にあることではありません。きっと、来月からはまた、空き時間に安いお仕事を1件、2件と地道にこなす日々に戻るのでしょう。そもそも、これまでの収入で均せば、月あたりの売上では大した金額にもなりません。

それでも、1件の小さな仕事で得た信頼が、次の案件につながっている実感があります。現時点の自分の市場価値について、その上限と下限がはっきり提示されるということも、今は楽しめています。「市場に評価される」ことの苦しさと喜びを、ほんのわずかでも実感することができて本当にうれしい。

さらに言えば、この10か月の歩みの中で、この先の働き方に新たな選択肢が与えられたと思っています。組織に所属しなければ生きていけないわけじゃない。自分のペースで仕事を選んでも、必要としてくれる人がいる。でもそういう生活を続けていくためには、とにかく成長し続けることが不可欠。

しばらくは経済的にとても不安定な日々が続くけれど、自分にもまだまだやれることがあって、まだ伸びていけるんだと希望を感じられることが、本当に幸せです。公務員だったころの、とにかく希望がなくて人生を捨てているような感覚には、もう二度と戻れない。

 

SONGSスペシャル・宇多田ヒカルの言葉

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お正月の再放送を録画して、やっぱり何度見ても素晴らしかったので、備忘録的にその言葉をいくつか書き留めておきます。彼女が紡ぎ出す言葉が、心の深い部分をえぐっていく感覚があって、泣けました。

以前の記事はこちら。

 

母・藤圭子の死について

あらゆる現象に母が見えてしまった時期があったんですよ、関係ない事象でも。うわーつらいなー、やだなー、それってなんなんだろうと思ったんだけど、結局誰しも原点があって、私の原点は母だと。私の世界、あらゆる現象に彼女が何かしら含まれるのは当然じゃんと。私の体だって親からきてるものですから当然か、と思えるようになって。それまで悲しいと思ってたことが急に素晴らしいことだなと、それを感じられるようになったんだから素晴らしいことじゃないかと思ったんですよ。

 

亡き母に伝えたいこと

 もし母が亡くなった後に妊娠していなかったら、今もし子供がいなかったら、たぶんアルバム作ったり仕事始めようと思えてないと思います。

 自分が親になると面白いなと思ったのは、自分の子供を見てて、生まれて最初の体験とか経験で、一番人格の基礎となるものとか世界観とか形作られていくじゃないですか。なのにその時期のこと、自分は完全に忘れてるってすごくないですか?つまり、すべて無意識の中にある、闇の中にあるみたいな。それをみんな抱えて生きていて、そこからいろんな不安とか悩みとか苦しみが出てくると思うんですよね。なぜ私はこうなんだ、なんでこんなことをしてしまうんだとか。自分が親になって自分の子供を見てると、最初の自分の空白の2、3年が見えてくる。ああ、私こんなんだったんだな、こんなこと親にしてもらって、こんな顔してて、というのが見えて、それって結局親に対する感謝とか、自分がどこにいるのかがふわっと見えた瞬間という感じで。ずっと苦しんでいた理由みたいな、わからない、なんでこうなんだっていう苦しみがふわっとなくなった気がして。それこそいろんなものが腑に落ちるというか。

 

子は、永遠に母の一部

母が亡くなって10年以上経っても、いまだに母を思わない日はない。今でこそ辛いばっかりじゃなくて温かい記憶でもあるけれど、後悔や淋しさは消えることがなくて、その気持ちはずっと抱えていくしかないと思ってきた。

でも、そうじゃない。私は今も母の一部。だから、あらゆることが母につながっている。私が生きているから母は今も私の中で生きていて、それは記憶や意識の中だけじゃなくて無意識のレベルにも深く存在しているし、極小な遺伝子のレベルでも確実に存在している。それって、本当に素晴らしいことだ。


 

親自身の世界を広げ続けることが、子どもの可能性を広げる

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年末年始は、夫の実家で夫の親戚たちと過ごした。総勢20人ほど集まって、それは賑やかな年越しだった。親戚には以前も会っているのだが、会うたびに子どもが増えている。5歳児が走り回り、1歳児と2歳児がおもちゃを取り合って叫び、生まれたての新生児が泣く。ふだん子供と接する機会がないから、それぞれの子どもの違いが如実に見て取れて、いろいろと思うところがあった。

個性か、環境か

親戚に、両親共働きで小さいころから保育園に預けられて育った子ども(1歳男児)と、専業主婦が(保育所に預けずに)家で育てている子供(2歳男児)がいた。親戚が大勢集まって慣れない環境だったにも関わらず、前者の保育園育ちの1歳児は基本的に座って食事をし(動き回ることはあっても、また戻ってきて座って食事した)、両親が注意すれば反応を示し、叱られればちゃんと怒られた顔をした。一方、後者の2歳児は、動き回るのを親がスプーンをもって追いかけ、座って食事することが全くできなかった。注意してもあまり聞いておらず、一人遊びに熱中するばかりだった。

これに対し、「小さいうちからダメなことはダメと教えないといけないよ」とか「叱らないと、親のことを舐めてしまって言うことを聞かないよ」とか、周囲の親戚たちがいろいろと助言していた。後者の母親は、夫の転勤に付いて引越を重ねながら、実家から遠く離れた場所で専業主婦となって子どもを育てているので、こういった助言を有難がってよく聞いていた。

現時点において、この2人の子供の違いはとりたてて問題視することではない。そもそも個性が違うし、保育所に預ければ良いしつけができて社会性が身につく、といった単純な話ではない。まずは両親がきちんと子育てをすることが大前提である。でも、多くの人間が関わって子育てしていくことの重要性が、何となく認識させられる場面だった。そのことは、私の今後の人生設計にも影響を及ぼしそうだ。

これまでのプラン

私たち夫婦には、まだ子どもがいない。年齢的にも今後のライフプラン的にも、そろそろ欲しい気持ちもある。いま私はフルタイムの仕事をしていないし、子どもが小さいうちは保育所に預けずに出来る限り自分で育てたいから、今なら絶好のタイミングなんだけれど、なかなかうまくいかない。といって、新しい仕事を見つけてしまってからすぐ妊娠となると、それはそれで大変だ。やっぱり出産してから再就職を考えるのがスムーズなんだけど、でもできない。このままだと出産が遅れるだけでなく、再就職もどんどん後ろ倒しになって、年を重ねるほど就職に不利になるのに。そんな気持ちばかり募って、現実が追い付いてこない。

そもそも保育所に預けずに自分で育てたいと思ったのは、乳児期に親の愛情をしっかりと受けることが、子どもの人格形成にとって重要と言われているからだ。少なくとも2歳くらいまでは自分で育てて、その後に子どもの状態を見ながら預け先を探していこうと、これまでは考えていた。

・幼い子供は、たいていの物質的な環境はそのまま受け入れ、適応する。子供にとって重要な環境とは、いうまでもなく愛情と保護である。その中で子どもは、自分が安全に守られた存在であり、より大きな存在としっかりつながっているということを、体と心で身に着けるのである。この人格形成のもっとも根幹となる過程は、およそ満2歳までに行われる

・乳児期が終息に近づき、よちよち歩きを始めた頃から、子供は次の段階を迎える、およそ1歳半から3歳までの期間だ。この間に、子供たちは徐々に、母親から分離を成し遂げる。この分離がスムーズにいくためには、母親が、子供を見守り、その欲求をほどよく満たしつつ、同時に徐々に自分の手から放していかなければならない、この母子分離の過程が、あまりに急速過ぎたり、逆に母親が手放すのを躊躇したりすると、分離固体化の課程に支障をきたす。

岡田尊司「パーソナリティ障害」)

親が社会とどう関わって生きているのかを、子どもは見ている

これまでのプランどおり、保育園に預けずに私が家で1:1の子育てをしたらどうなるか。

これは私自身の性格に起因するところだが、多くの人に囲まれた環境よりも孤独で静かな環境を愛するうえ、知人のいない土地に引っ越してきたばかりの身としては、おそらく母子一体の、じっくり子どもに向き合う濃密な時間を過ごすことになるだろう。

不安なのは、それと引き換えに社会から子どもを切り離してしまったり、場合によっては偏った独断的な子育てをしてしまうことである。なんでも相談できる母親はもう亡くなってしまったし、実家も義理の両親も遠く離れた場所に住んでいて、日常的に子どもに関わってもらうことは難しい。

つまり、私自身が積極的に社会と関わっていかない限り、子どもと社会との接点が制限されてしまうのではないか。「一人が好きだ」という私の性格のせいで、子どもと社会の間に見えない壁を作るようなことは望んでいないし、保育園に預けず自分で育てるとしたら、それは子どもにとって最善と思うからで自分のエゴのためでは決してない。

子育てにはいろいろな考え方があるけれど、自分の性格を考えると、たくさんの人に関わってもらう環境が必要だと感じる。それには、たくさんのママ友を作るのでもいいし、自治体の子育て支援メニューを活用するのもいいかもしれない。けれど、やっぱり私は働きたい。働くことで、社会との接点を増やしたい。親自身が自分の世界を広げ続けることが、子どもの世界を、子どもの可能性を、広げていくことにつながると信じている。親が社会とどう関わって生きているかを、きっと子どもは見ている。

 

そんなことを悶々と考えながら、2017年を迎えた。まだ答えは出ないけれど、ぼちぼち本気で仕事を探してみようと思っている。