LIFE SHIFT

三十歳の原点~LIFE SHIFT~

社会人大学院生の日記。新たな働き方を模索中。

AIが台頭したら、文系研究者はもういらない?

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最近、自分の10年後の姿が具体的にイメージできなくなってきている。

公務員だったころは、隣の席を見れば数年後の自分、隣の隣を見れば5年後、10年後、という具合に、退職までの人生がある程度見えていた。それが良かったかというと、そんなことは全然なくて、公務員を辞めたのはその予測できる未来に心底絶望したからでもある。

そしていまは反対に、予測できない未来の世界から零れ落ちないようにどうすべきか、期待と不安をもって日々考えている。こうなっていたらいいなという願望とか人生計画みたいなものは、もちろんある。でも、10年後にその仕事が存在しているのか、ニーズがあるのか、自分が目指すべき方向がこれでいいのか、考えてしまうことが最近よくある。その要因の1つが、AIの台頭だ。

社会の様々な問題をテクノロジー(AI)で解決できるようになったとき、理系研究者にはそのテクノロジーを進化させていくニーズがあるけれど、文系研究者には何ができるだろうか。文系研究者はいらなくなってしまうのか。そんなことを考えてみたい。

 

AI時代に、文系研究者に求められること

テクノロジーを活用した先にあるビジョンを明らかにすること

先日のブログにも書いたように、AIがとって代われない仕事は、ビジョンを語ることであり、何を実現したいかというモチベーションを持つことこそが人間の役割である。テクノロジーは私たちの生活を豊かにするが、どういう暮らしを求めるかは、人間の価値観や欲望や幸福度と直結している。これこそが、人文社会科学が長い歴史のなかで考えてきたことである。

数学や科学の問題には、最終的に決まった答えがある。答えに行きつくまでの過程が異なっても、最後には絶対的な答えがある。しかし人文社会科学系が直面してきた問題には、絶対的な答えがない。そこにこそ、AI時代に人文社会科学の生きる道がある。

テクノロジーがどう社会に役立ち、どう生活に影響するのか、わかりやすく説明すること

この社会には、テクノロジーによる変化を受け入れない人々が一定数いるということを忘れてはいけない。テクノロジーを有効活用することによるメリットやリスク管理について、一般向けにわかりやすく粘り強く説明することは必須である。ときに哲学の視点から、文学の視点から、社会学の視点から、経済学の視点から、あるいはこれらを組み合わせて説明することができれば、これは強みである。

Biz/Zineの記事にもこんな言及がある。

「セルフドライビングカーが人を轢き殺した時に誰が責任を取るべきなのか?」「AIを搭載したロボットが人を傷つけた場合にロボットは責任を負うべきなのか?」「どのような条件を備えたときにロボットに意識があると言えるのか?」「AIが音楽を作曲した時に、誰が創造したことになるのか?」 といった議論が話題になっている。私たちはまだ、「意識とは何か?」といった問いに対する答えが得られなくても、別段不便を感じることなく日々の生活を営むことができる。だが、高度な自律性を持つAIやロボットが出現したあかつきには、責任や意識、創造などに関する根源的な問いに誰しも直面せざるを得なくなる。

 

AI時代に、文系研究者が身に着けるべきこと

AIに関して論じられるだけの知識・情報を更新し続けること

これができる文系研究者はまだ圧倒的に少ない。AIの開発から普及までのすべてを、理系研究者任せにしている現状がある。もちろん各々の専門に対するリスペクトは最低限必要だが、究極的には、文系だから説明要員、理系だから開発要員、というような単純すぎる認知の壁、偏ったすみ分けを乗り越えていく気概がなければならない。

学際領域でAIが抱える問題に対処すること

学際とは、異なる学問分野がまたがって関わり合うことを言う。哲学だけ、経済学だけ、社会学だけ、という専門バカでは対応できない時代が来ている。人文社会科学系学問(ひいては理系も含めて)が有機的に連携し合って、問題解決に当たらなければならない。

翻って自分の状況を客観的に見ると、専門以外の研究者とのつながりが圧倒的に少ない現状がある。他分野・他学部の先生と学会などで一緒になっても、それで終わってしまって、そこから共同プロジェクトを進めるような流れになることはまだ少ない。自分には、攻めの姿勢が足りないんだなぁということを改めて自戒する。

 

まだまだ考えるべきことがあるけれど、今日のところはここまで。

 

Photo by Lukas on Unsplash